先日、私の教会で教会学校の夏期学校(VBS)が行われました。私たちのVBSは5日間のプログラムで構成されています。このプログラムは子どもたちにキリストについて教え、キリストが差し出してくださる救いに応答する機会を与え、クリスチャンであるとはどういうことなのかが分かるよう、少しばかりの弟子訓練も行います。5日間のプログラムには日ごとにテーマがあり、それは次のとおりです:罪、裁き、咎(罪責)、救い、務め(またはクリスチャン生活)。このプログラム作りに関わった者として、これらのテーマで自分なりの5回シリーズの記事を書いてみたら面白いだろうと思いました。というわけで、今日はそれを始めます!
罪とは何か?
罪とは何でしょうか?メリアム・ウェブスター辞典は、罪を「宗教的または道徳的な法に対する違反、神の律法に背くこと」と定義しています。「そんなの当たり前だよ、罪が何かなんて誰でも知っている」と思われるかもしれません。この定義の問題点は、あいまいで、原語であるヘブライ語やギリシャ語で使われている言葉を反映していないことです。実のところ、これは聖書に出てくる似通った三つの言葉、すなわち罪、不義(咎)、そむき(違反)をひとまとめにしたものです。VBSでは罪を「神さまが喜ばれない、あなたがすること、言うこと、考えることすべて」と定義しています。子どもが理解するにはよい簡潔な定義ですが、聖書における罪の意味の深さには欠けています。
では、罪をどう定義すればよいのでしょうか?実は、とても簡単なのです。「罪」と訳されている言葉は、ヘブライ語でもギリシャ語でもまったく同じ意味を持っているので、罪が本当は何を意味するのかについて議論の余地はありません。実際、この言葉はもともと「律法からの逸脱」を定義するために使われていたのではありませんでした。この言葉は、罪という概念そのものを教えるための視覚的なたとえだったからこそ、あえて選ばれたのです。
ヘブライ語でもギリシャ語でも、罪とは「的を外す」という意味で、どちらの言語でも弓術の用語です。ですから、弓の練習場へ行って何本か矢を射てみて、この言葉の意味をよりよく理解してみましょう。
少しの間、一緒に想像してみてください:
あなたは親友と一緒にいて、弓と矢の準備は万端です。すばらしい日です。太陽が輝き、鳥がさえずり、周りは美しい林に囲まれています。最初の的を射る前に、友人がアドバイスをしてくれます。
「いいかい、あそこの丸い的が見える?ちょうど真ん中にある印が見えるかな?あれが『ブルズアイ(中心)』だ。君が狙うのはあそこだよ。」
あなたはアドバイスを聞き、うなずいて、弓から矢を放ちます。ビュン!矢はものすごい速さで弓を離れます!矢は空を飛んで的を通り過ぎ、下の草地に落ちてしまいます。友人はくすくす笑いながら言います。
「うーん、的を外しちゃったみたいだね……」
聖書の時代には、射手が的を射て外したとき、「的を外したね」と言う代わりに「罪を犯したね」と言いました。野球のファウルボールやテニスのフォルトとそれほど違いはありません。あなたの務めは何かを決められた有効な範囲に入れることでしたが、まっすぐに打つことも、射ることも、投げることもできなかったので、範囲外のどこかに落ちてしまったのです。
この「まっすぐさ」は、聖書が強調している概念です。ヘブライ語で「正しい(義である)」という言葉は、文字どおりには「まっすぐである」という意味で、多くの場合まっすぐに歩くことと結びついています。この考え方は箴言4:25-27にはっきりと見ることができます。
あなたの目は、まっすぐに正面を見、あなたのまぶたはあなたの前を、まっすぐに見よ。あなたの足の道に気をつけよ、そうすれば、あなたのすべての道は安全である。右にも左にも迷い出てはならない、あなたの足を悪から離れさせよ。
この「まっすぐに歩く」という概念は、ヘブライ人の遊牧生活から来ています。ある場所から別の場所へ、特に長い距離を移動するとき、目印がなければ道に迷いやすいものです。では、どうするのでしょうか?まだ目印が見えているうちに行くべき方向を見定め、次の目的地に向けて自分の向きを合わせ、そこに着くまでまっすぐに歩くのです。まっすぐに歩いている限り目的地に着きますが、左や右に少しでもそれると、方向を見失って迷ってしまう危険があります。だからこそ「まっすぐ」が道徳を表すのに用いられるのです。神は私たちが歩むための「まっすぐな」道を造ってくださいました。その道にとどまっている限り私たちは安全で、神の祝福が私たちの上にありえます。しかし、その道から一歩でも踏み外すと、私たちは方向を見失い、どちらが正しい道なのかを自分で定義し直し始め、罪の輪の中をぐるぐると歩き回るようになるのです。
「正しい」が「まっすぐである」という意味なら、罪はその反対の「まっすぐでない」、あるいは「曲がっている」という考えを持っていると予想できるでしょう。そして予想どおり、実際にそうなのです。「罪」という言葉の場合、矢を的に向けてまっすぐ射ていれば当たっていたはずですが、左や右にそれてしまったので的を外し、範囲外に落ちたのです。
「罪」という言葉の意味が分かったところで、罪の種類を比べて、それぞれの違いを見てみましょう。(「まっすぐさ」という考えとの共通点が見つかるかどうか、注目してみてください。)
罪:罪とは「的を外す」という意味です。何かをしようとしながら、失敗するという考えを含んでいます。ローマ人への手紙3:23が言うように、私たちは「神の栄光を受けられなくなって」います。英語の聖書ではここが「(神の栄光に)達しない」と訳されており、まさに的に届かないというイメージです。罪は意図的な場合もそうでない場合もあり、「間違った行い」を表す最も一般的な言葉です。自分や誰かが罪を犯したと言うとき、それは単にその人が失敗したと言っているのです。
不義(咎):ヘブライ語の「不義」という言葉は、文字どおりには「曲げられる、かがめられる、ねじれる」という意味です。良いものを取ってねじ曲げ、悪いものにしてしまう、つまり何かをゆがめるという考えを含んでいます。その人がしている行為自体は悪ではないかもしれませんが、その行為の目的が悪い、あるいは不道徳な意図によって果たされているのです。不義は常に意図的な行為です。
そむき(違反):聖書では「そむき」と「過ち(罪過)」はしばしば同じ意味で使われ、「越えて行く、わきへそれる、踏み越える」という意味があります。「線を踏み越える」、あるいは「道から外れる」という考えを含んでいます。そむく者は、自分が何をすべきか、何が求められているかを知っていながら、それでもあえて従わないことを選びます。神から与えられた線を「踏み越え」、入ってはならないと命じられた領域に「侵入する」のです。
今日はここまでです。次回は裁きについてお話ししますので、ぜひ次の記事もご覧ください。
![罪とは何か? 福音の5つの言葉[パート1] 罪とは何か? 福音の5つの言葉[パート1]](https://www.nerdintheword.com/wp-content/uploads/2017/07/gospels_five_words_sin.jpg)

