救いとは何か? 福音の5つの言葉[パート4]

執筆者 | 10月 16, 2026 | Japanese

簡単なおさらい

シリーズ「福音の5つの言葉」のこれまでの3回の記事では、罪、さばき、罪責というテーマを取り上げました。第1回では、罪とは、神に背いたり隣人を不当に扱ったりすることによって、神の基準という「的を外す」ことだと学びました。第2回では、私たちがこの的を外したために結果が生じ、神がその結果を執行されることを学びました。第3回では、罪責とは何か、そして神が罪責を用いて、私たちに救い主が必要であることを示されることを学びました。今日は、私たちに救い主が必要であるとはどういうことかを見ながら、学びを続けていきましょう。

救われるとは?

クリスチャンがよく使う、こんな言葉を耳にすることがあります。「あなたは救われていますか?」これはもっともな質問です。結局のところ、「救われる」というのは、聖書の中で、人の人生における神の贖いのみわざを指して使われている言葉なのです。しかし、教会の外にいる人々にとっては、少しわかりにくく聞こえるかもしれません。では、「救われる」とは実際にはどういう意味なのでしょうか。

救いとは何か?

救いという行為を表すのに使える言葉はほかにもありますが、わかりやすくするために「救われる」という言葉を使うことにしましょう。聖書で「救われる」と訳されている言葉は、ギリシャ語のソーゾー(sozo)から来ており、「安全にする」という意味です。すると問題は、「何から私たちを安全にするのか?」ということになります。罪とさばきについての記事ですでに学んだように、私たちが神や隣人に対して誤った行いをして罪を犯し、神の基準に達しないとき、私たちは自分自身を神のさばきの真正面に置くことになります。人を不当に扱えば自然な結果が伴うので、罪にはこの地上での報いがあるかもしれませんが、いつもそうとは限りません。この世では、悪いことをしても何の害も受けずに済んでいるように見えることもあるでしょう。しかし、悪いことをしても逃げおおせていると思っていようといまいと、私たちの悪は最終的には罰せられます。この世でなければ、次の世においてです。この次の世における罰こそが永遠のさばきであり、地獄、また火の池とも呼ばれるものです。救いが私たちを救い出すのは、まさにここからです。では、地獄とはいったい何なのでしょうか。

地獄とは何か?

地獄は、もともと人類のために用意された場所ではありませんが、救われていないすべての人が死後に送られる場所です。彼らはそこで、自分の誤った行いのために火の池で永遠にさばかれる時を待つことになります。そこは、一度入ってしまえば抜け出す道のない場所です。それは最終的なものです。そこは暗闇の場所、火があまりにも激しく燃えるために黒く見えるほどの場所です。そこには人に喜びを与えるものは何ひとつありません。あるのはただ、完全な暗闇と永遠に続く苦しみだけです。しかし良い知らせは、誰もそこへ行くことを強いられてはいないということです。

救いのためになぜ神が必要なのか?

神は人類を愛しておられます。そしてそこには、あなたも含まれているのです! なにしろ、私たちを造られたのは神ご自身なのですから! 神は誰ひとり地獄に行くことを望んではおられません。聖書はこう言っています。

ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
ペテロの第二の手紙 3:9

しかし問題は、神は正しいことを行い、罪をさばかなければならないということです。もし神が罪に対する報いを執行されないなら、神は正しくも、公平でも、義でもないことになってしまいます。たとえば、ある殺人犯が裁判にかけられていて、裁判官がその殺人犯に「そうですね、あなたは人生でいくつか良いこともしてきたようなので、1週間の社会奉仕を言い渡します」と言ったとしたら、あなたはそれを間違っていると考えるでしょう。もしそんなことが起きたら、世間から激しい抗議の声が上がるはずです! いくつかの良い行い、この場合は社会奉仕が、どうしてこの人が殺人犯であるという事実を帳消しにできるでしょうか。もちろん、できません。同じように、私たちの良い行いも、人生における罪を帳消しにすることはできません。どれだけ良い行いを積んでも、してしまったことを元に戻すことはできないのです。たとえば、友人関係において大きな信頼の裏切りがあったとき、その結果を本当になかったことにできるでしょうか。それは難しいでしょう。その友人が埋め合わせのためにどれだけ良いことをしても、その友人が信頼できるかどうかについて、おそらくいつまでも多少の疑いが残るでしょう。友情はある程度回復するかもしれませんが、信頼を裏切った人に再び秘密の情報を打ち明ける前には、きっと二度考えるはずです。このことから、人間の考えにおいてさえ、良い行いが悪い行いを帳消しにはしないことがわかります。では、解決策は何でしょうか。そもそも解決策など存在するのでしょうか。

神のご計画

人は自分の悪を元に戻すことができず、罰は必ず執行されなければならないので、神は人類を救うために自ら乗り出されました。罪がなく、一度も罪を犯したことのない誰かがこの「罪の負債」の罰を支払わなければならないので、神は人の罪に対する罰をご自身の上に負うことを決められました。そうすることで、神は罰を受け、霊的な罰金を支払い、人が無罪と宣告されるようにされたのです。そこで、このご計画を成就するために、神はイエスという名の人としてこの地上に来られました。イエスは完全に神であり、完全に人であられ、人の体をとった神の満ちあふれる豊かさそのものでした。そして、ただ一つの目的のために来られました。それは、私たちの身代わりとして死ぬことです。初めに神は、罪の罰は死であると宣言されました。ですから、神が人の罰を負うためには、人の身代わりとして死ななければなりませんでした。神は死刑を受けなければならなかったのです。こうして神はイエスとして地上に来られ、約30年間、罪を犯すことなく人々とともに生き、人類にどのような者となってほしいと願っておられるかを教え、宣べ伝えられました。そして時が満ちると、人々がご自分に背を向け、偽りの罪状でローマ当局の前に引き出すことを、自ら進んで許されたのです。

十字架刑

イエスの犠牲は、すぐに終わる痛みのないものではありませんでした。イエスは嘲られ、見分けがつかないほど打ちたたかれ、ほとんど息絶えそうな状態にされた末、ついにローマとユダヤ人の双方によって、十字架の上での耐えがたい苦しみの死を宣告されました。(実際、「耐えがたい苦痛」を表す英語の excruciating という言葉そのものが、十字架刑に伴う苦痛に由来しています。)今や自らの血にまみれ、肉は裂けてむき出しになったまま、イエスは十字架を背負って道を歩かされました。やがて疲労と痛みでよろめき、それ以上十字架を運べなくなるまで。そこで兵士たちは別の男に命じて、十字架を処刑の場所まで運ばせました。その場所はゴルゴタ(「されこうべの場所」という意味)で、彼らはそこでイエスの両手と両足に釘を打ち込み、十字架に釘づけにしました。それから、イエスを付けたまま十字架を持ち上げて所定の穴に落として立て、イエスを苦悶の中に放置したまま、その衣をくじ引きで分け合い、イエスを嘲りました。何時間もの苦しみを経て、人類のための罰と苦難を耐え忍ばれた後、イエスは「すべてが終った」と宣言して、私たちの罪のために自ら進んでいのちを差し出されました。それは、次の瞬間、罪のないご自身のいのちを自ら明け渡すことによって、人類を罪の負債の報いから解放しようとしておられることを指していました。そしてそう言われると、霊を父にゆだねられました。宇宙の神が人の罪のために死なれ、今や人は自由にされることができるようになったのです。それは美しい光景ではありませんでしたが、神は人類の救いを成し遂げられたのです。

選択

三日後、イエスは墓からよみがえり、神であり救い主として死に対する勝利を示されました。そして弟子たちに、ご自身の犠牲によって、今や救いが人類に差し出されていることを世界に伝えるよう命じられました。しかし、救いが差し出されているからといって、それが自動的にすべての人に適用されるわけではありませんでした。神は、ご自身の犠牲を自分のためのものとして受け入れるかどうかを、一人ひとりが自分で選べるようにされたのです。救いを望む人は誰でも、それを受けることができます。自分の罪の代価を永遠に支払うことを望む人は、そうすることもできます。神は、人が自分の人生を思うままにすることを許しておられます。しかし私たちは皆、選択肢一か選択肢二のどちらかを選ばなければなりません。そしてこの選択には期限があります。私たちは死ぬ前に選ばなければならないのです。その賜物を受け入れることを選ばないまま死んでしまえば、もう手遅れです。死がいつ訪れるかは誰にもわからないので、今選ばなければなりません。今日、神の賜物を選ばないことは、自分自身の失敗の代価を永遠に支払うことを選ぶことなのです。では問題は、どうすれば選ぶことができるのか、そして選ぶためには何をする必要があるのか、ということになります。

信仰と悔い改め

良い知らせ(聖書では”福音”と呼ばれます)は、あなたが救いのために働く必要はないということです。前にも述べたように、私たちがどれだけ正しいことをしても、自分の悪を正すことはできません。だからこそ、神は救いを無償で与えてくださるのです。神はただ、あなたのために差し出してくださった賜物を信じることだけを求めておられます。

自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
ローマ人への手紙 10:9

あなたが悪を行い、救いを必要としていることが真実であると信じ、神ご自身が来て、あなたに救いの機会を与えるために死んでくださったこと、そしてあなたがその救いの賜物を受け取ることができることを信じるなら、あなたはそれを受けるのです。何の条件も付いていません。イエスご自身が、悔い改めて賜物を受け入れるようにと、こう呼びかけておられます。

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
マルコによる福音書 1:15

悔い改めという言葉は、単に「考え直す」という意味です。ですから、今日考え直してください。良い知らせを信じ、あなたのためのイエスの犠牲を受け入れてください。罪責と罪から自由になってください! 神は、あなたが神のもとに来るために善い人や聖なる人であることを求めてはおられませんし、救いを得るために正しい生活を送っていることも求めてはおられません。むしろ、神はこう言われます。

御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。
ヨハネの黙示録 22:17

イエスがあなたに与えてくださったいのちを味わいに来てください。もしそうしたいと思うなら、ただ神に語りかけ、その賜物を受け入れたいと伝えてください。何と言えばよいかわからない場合は、たとえばこんなふうに始めることができます。

「神様、私は自分の行いによって、あなたと人々に対して悪を行ってきたことを知っています。私は自分の罪から自分自身を救うことができず、あなたの救いが必要であることを知っています。あなたが十字架の上で私の罪の代価を支払ってくださったときに、私に差し出してくださった救いを信じます。神様、あなたの賜物を受け入れます。」

もしあなたがこの言葉とその意味するところを本当に信じるなら、あなたがどこにいても、神は救いを求めるあなたの願いを聞いてくださいます。必ずしもこの言葉どおりである必要もありません。神が望んでおられるのは誓いや誓約ではなく、神を求める、柔らかく受け入れる心なのです。今日、救いとは何なのかをお伝えできていれば幸いです。もしまだ神を信じていないなら、今日神を信じ、神をあなたの人生の一部としてお迎えすることをお勧めします。

主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。
詩篇 34:8

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